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4.ことばへの気づき

以下の文章は2009年の夏に勤務校内の研究会のためにわたしが単独でまとめたものです。原題は『英語科がいま、とりくんでいること』でした。わたしが1999年度からつづけてきたとりくみが2007年度から英語科の新教科課程となり、そのとりくみについて報告しました。そのため、「英語科」のとりくみとして書きましたが、表わされている考え方や独特な用語はすべてわたしが発想したもので、それらを含めて教科課程に採用されているので、著わしたすべてが Kenneth I. Cowart のとりくみそのものです。念のため。

特定の名称を一部伏字としました。



(6) 母語とつなぐ

ここまでは、現カリキュラムが文法・構造を軸に構成され、中でも生徒がもっとも必要とする文法は〈文のくみたて〉であり、それが書くこと・読むことに何をもたらすかを述べてきた。しかし、視点1は生徒にとってのわかりやすさを述べたものである。

たとえば、「始」の送りがなには「まる」と「める」をふることができ、「始まる」は『授業が始まったよ』のように主語以外に何の情報も付加せずに使うことができる一方、「始める」は『親父が始めたんだよ』では情報の不足を感じる「始める」には(少なくとも)「何を」という情報がなければおかしい(文として完結しない)という感覚は誰にでもある。その、生徒が母語をとおして直感的に身につけた感覚を英語の授業に生かさない手はない

「英語で考えることが大切だ」という人がいる。その主張は中級者以上には有効でも、初級者には「害あれど益なし」である。生徒たちのほとんどは英語初級者である。その彼らは日本語でものを考える。ならば、その日本語と英語とを関連づけてまなぶことが、実は英語の授業にとって重要なことなのだと考える。したがって、報告者は授業開きに次のように語りかけている。

ところで、「考える」ためには手がかりになるものが必要だ。むやみやたらに考えてもしょうがない。英語ということばについて「考える」ときは、ぼくらにとって一番身近なことば「日本語」を手がかりにしよう! いつも日本語と比較しながら英語をまなんでいくと、まだ気づいていない日本語の世界も見えてきて、みんなのことばの世界がかならず広がります

そこで、以下においてこの考えについてもう少しくわしく述べたい。

(7) 大津由紀雄の提案

昨夏、4月に目にして気になっていた「マルチコンピテンス(multi-competence)」について調べてみた。結局、「共有(あるいは、共通)基底能力」、そして「メタ言語能力」へとその範囲を広げながら、さまざまな文献を読みあさることとなった。その中で、大津由紀雄(慶応大学認知文化研究所教授、専門は言語の認知科学)の意見に共感を覚えた。まとめると、次のとおりだ。

[1] 言語には普遍性があるということを基盤にして言語力を育成すべきだ……(a)
[2] 言語力育成には「ことばを考える対象とし、その仕組みや働きを意識的に
捉える力」、メタ言語意識を育てることが肝要だ……(b)
[3] 特に、外語学習においては分析的なアプローチが必要だ……(c)

大津は一貫して「『ことばへの気づき』(メタ言語意識)の育成」が重要だと説いている。「ことばへの気づき」とは、「ことばを考える対象とし、その仕組みや働きを意識的に捉える力」のことである。特に、外語を学ぶ際には、母語のように無意識的には身につかない分、「ことばに対して分析的である」ことが必要なアプローチである、と述べている。

大津は小学校への英語教育導入に「断固反対」の立場をとっていて、「いま小学校に導入すべきは決して英語活動/教育ではなく、ことばへの気づきを育成するためのことばの教育であ」り、まずは「直感がきく母語を対象に行うのが望ましい」としている。

その根底には「言語普遍性」というとらえ方が存在する。『英語教育』2006年5月号で「英語力と国語力をともに育てるには―」という特集が組まれ、その中で大津は次のように述べている(下線は引用者による)。

「国語力と英語力をともに育てる」という問題を考えるには、まず、日本語と英語は表面上の相違にもかかわらず、同質の構造を持った体系であり、同質の機能を果たすという認識が重要である。この認識は特定の言語理論(たとえば、生成文法)に依拠するものではない。人間は生まれた時点では、どの自然言語であっても生後の一定期間、触れていれば、自然に身につけることができるという潜在的可能性を持っている。たとえば、読者の多くはこの期間に日本語に触れることによって日本語を母語として身につけたのであるが、仮にその期間、英語に触れていれば英語を母語として身につけたはずである。それは、日本語と英語が同質の体系で、同質の機能を果たすと仮定することによって自然に説明がつく。自然言語の構造的・機能的同質性を「言語普遍性」と呼ぶとすると、「国語力と英語力をともに育てる」基盤にまずあるべきものはまさにその言語普遍性である。 以下に、ここでいう言語普遍性の例をいくつか挙げる。

1.言語表現は単語が一列に並んだものではなく、単語が順次有機的に結合さ
れ、階層的な構造を形成するものである。
(例)[若い[男と女]]、[[若い男]と女]
2.文のなかに文を埋め込むことができ、しかも、その操作を繰り返し適用す
ることができる。
(例)[[[裕子が泣いた]と順子が思っている]と由紀子が信じて
いる]
3.(言語)コミュニケーションは「最大限の関連性を確保せよ」という基本
原理によって支えられている。
(例)(街角で)「すみません、時計をお持ちですか?」「ハイ、7
時25分です。」

このように、日本語も英語も同じ構造的・機能的基盤のうえに築かれたものであるのだから、両者の表面的相違(および、母語と外国語という違い)にもかかわらず、両者を連携して育てることは可能であり、また、そうするのが本来の姿である

「国語力と英語力をともに育てる」ためのもう1つの基盤は論理的議論の普遍性である。論理的議論は根拠(証拠)と主張を論拠によって結びつけたものであるが、その構造は自然言語によって左右されることはない。したがって、日本語での論理的議論と英語での論理的議論は本質的に同じ構造を持つはずのものである。


  1. この節で引用されている文の出典はすべて次のとおりである。
    大津由紀雄 2007 『英語学習 7つの誤解』(NHK出版)

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